横浜の民話


かつて広報紙「PTAよこはま」に連載されていた「横浜の民話」が、20年ほど前に一冊の本になりました(昭和62年)。
画家・小幡春生さんの手になる、美しい日本画のオリジナル挿絵が入った各地のお話を、少しずつ、当時の文章のままご紹介します。

書籍「横浜の民話(復刻版)」が出来ました!!
ご希望の方には実費にてお分けします。問合せは事務局まで

とんでもくい (鶴見区 潮田)

 昔、鶴見の潮田が、まだ一面のアシの原っぱだった頃の事。
 ある時、二人の男がここを通りかかった。ちょうど昼飯じぶんだったので、
「ここらでめしにしよう。」
と並んですわった二人は、沖を眺めながら、一方の男が大声を出して、アシの原を指さした。もう一人の男もあわてて目をこらす。一面のアシの原には、ポツンポツンと、黒いものが見えている。
「あの黒い杭は何だろう。ずいぶんおかしな所に杭を打ったもんだ。」
「ああ、あれはカラスだろう。杭ではないよ。」
「カラスだったら動くだろうに。あれはびくっとも動かぁしねえ。あれはやっぱり杭だよ。」
 二人は、杭だ、いやカラスだ、とどなり合っていたが、どうもはっきりしない。
「よし、見てろ。」
一人が持っていた大きなにぎり飯を、黒いものに向かって、思い切り投げつけた。すると、バタバタと舞い上がっていっせいに海の方へ飛んで行ってしまった。
「やっぱり、カラスだ。」
「いや、飛んでも杭だ。」
 それから、潮田のあたりでは、強情な人の事を、「とんでもくい」と、いうようになったということだ。

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根岸の二つ岩 (中区 根岸)

むかし、根岸の里に一人の娘がおった。お父は舟に乗って漁に出た。おっ母は病で寝ておった。

 娘は畑仕事しながら、おっ母のめんどうをみていたから、嫁ぎおくれておった。

 暗いうちから丘の畑に出て、背負い籠に菜っぱをつんでると、海は水平線から日がのぼり、雲は、染まりながら真珠だまの光をこぼしておった。あまりの美しさに磯におりると、磯の藻の中にしかけた胴で、ウナギを引き上げている兄ぃがおった。根岸に住みつくようになった、一人暮らしの兄ぃであった。兄ぃはウナギをビクにうつすと、「おっ母に」とさし出し、去っていった。

 娘は、いつか兄ぃと思いをかわす仲となったが、だれも一緒になれとは言ってくれなんだ。

 ある日の午後、兄ぃはいつものように舟をいそがせた。あいにく荒天、暗雲たちこめ、兄ぃの漕ぐ手は乱れた。岬の松を見た瞬間、力尽きた。目の前に娘の姿が浮かんだ。カスリの仕事着、赤い帯。

 一夜が明け、風はおちたが、波はうねりを残していた。浜は、かえらぬ舟を案ずる人でうまった。岩にぶつかり、うちくだかれた兄ぃの舟の破片を、人々は見た。

 娘は兄ぃを待って一之谷の浜に立ちつくすようになった。松を鳴らす風の音も聞かず、ほつれた髪を海風にさらしながら…。

 年が経った。兄ぃの舟をうちくだいた大岩によりそうように、小さい岩が頭を出した。二つの岩は、深い海の底でつながっているという。

 娘と兄ぃの夫婦岩と呼んで、土地の漁師は二つの岩の間を分けて漕ぐことはなかったという。

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祐慶坂と十三品塚 (保土ヶ谷区 今井)

 昔、鎌倉幕府へ通じる街道の一つが、今井町を北から南へと横切っていた。今でも、鎌倉橋と名付けられた三間足らずの橋があり、そこを過ぎると、石塔が何本か寄進されている古い稲荷の小社が木立の中にある。そこから胸を突くような急坂が、丘の頂きへと通じている。その坂が裕慶坂(夕景坂、幽霊坂とも呼ばれる)であり、その途中と頂上とに、十三品塚が二か所残っている。(頂上の塚は現在でもほぼ外形を残している)

 鎌倉道は、そこからさらに南にのび、塚が点在していたが、横浜バイパスを横切るあたりからは、現在では、道も塚も姿を消している。
裕慶坂ができる前は、木の根につかまって上り下りした鎌倉道の難渋を救おうと、裕慶という坊さんが、一人で汗水流し、幾日もかかって現在の坂を作ったので、村の人達はその労を多とし、裕慶坂と名付け、永くその徳を偲ぼうとしたのだそうだ。

 ところが、その後、品濃(戸塚区)の農夫が、今井の畑を耕しに、樹木の生い茂った昼なお暗いこの坂を通ると、そのたびに化け物が出て悩まされるので困っていた。そこで、坊さんは、坂にある十三品塚のそばに塔婆を建て、懇ろにまつり、魔物を封じ込んだので、人々は安心して裕慶坂を上り下りすることができるようになった。

 その裕慶という坊さんは、近くの金剛寺の住職かと尋ねてみると”裕”という字のつく坊さんは、三代目の裕尊だけだということだった。ほかには、鎌倉橋の際にあった地蔵堂の坊さんや、和尚谷戸(現存する土地の人は”おしゃと”と呼ぶ)の坊さんなどが考えられるが、いずれもはっきりしない。

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ねこ塚と村人の温情 (旭区 善部)

 かつては、この辺りは善部谷と呼ばれ、山あり谷ありで、その間を戸塚道とか藤沢道とか、信仰につながる大山道も交差しておりました。また、善部は一つの宿駅にも値する所で、それなりに開けていたことでしょう。

 この村の一段高い森に、松久山妙蓮寺(日蓮宗)があります。この寺と向かい合った東海道新幹線わきの静寂な木立の丘に、ねこ塚(今井悦二氏宅の広い山の上)があります。

 この塚は、今からおよそ二百数十年前に建てられたものといわれ、次のような言い伝えがあります。

 ある年のこと。秋も深まり、四方の山々も紅葉に変わり、吹きくる風もひとしお身にしみて淋しさを感じる昼下がりのことです。善部の里に幾日も旅を続けてきたかと思われる一人の六部姿のおばあさんが、疲れ果ててトボトボと歩いておりました。年のころは六十をはるかに越えた、品の良いおばあさんであったとか。

 井刈場近くで見かけた里人は、どこへ行くのかしら、知人か親戚でもあるのかしらと、しばし木々の間に見え隠れするおばあさんを見送っていました。それから一両日後、そこを通りかかった村人が、次の出来事を発見しました。

 おばあさんは既にこの世の人ではなく、一匹の猫がおばあさんに寄り添うようにないていました。村の人々が集まって来たので、猫は安心したのでしょうか、おばあさんの後を追うかのように死んでしまいました。

 これは、恐らくおばあさんが手塩にかけて可愛がり、旅から旅へと連れ歩いたものでしょう。村の人々はその場で相談し、倒れた場所におばあさんと猫を葬り、塚を作り、石碑を建てその霊をとむらいました。

 それからは、誰いうとなく「ねこ塚」と言うようになったとか。そして命日には塔婆をたて、線香などを上げ供養し、現在に至っております。

 なお、この塚は、旭区善部町148にあります。

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霧が池の大蛇 (緑区 霧が丘)

 人里を離れ、深い森に包まれた霧が池は、絶えず水を満々とたたえていました。水面は朝日に美しく輝き、夕日に神秘的な映えを見せ、水の色が一日に七回も変わったと伝えられています。春から夏にかけては、菖蒲が妍を競い合い、じゅんさい(スイレン科の水草)がひっそりと花をつけるなど、色彩はさらに加わっていきました。

 昔、ここには主の大蛇がすんでいました。しかし、付近の山林が次々と開墾されて畑になっていくため、大蛇の生活の場はしだいに狭められていきました。ある夏の昼下がり、村人が池の近くを通りかかると、道端の涼しい木陰に大きな丸太が横たわっていました。村人はそこに腰を下ろして一服し、しばらく休んで出かけようとしました。すると今まで腰をかけていた丸太が動くではありませんか。びっくりした村人がおそるおそる見ると、それは、大蛇が昼寝をしていたのでした。

 こうしたことがあってから、大蛇はこの地で生活できないことを悟りました。ある夜、大蛇は女の姿となって、この土地にある宝袋寺の住職の夢枕に立ち、石の社を建てて欲しいと訴えました。寺では蛇の願いを聞き入れて池のほとりに石の社をまつりました。大蛇は、間もなく旭区の大池へと移っていきましたが、そこも住みづらくなり、いずれかへ飛びさったと語り伝えられています。

 この社を弁天社といいます。現在の社(石廟)は明治八年(1771)に建立したもので、その側面に「かんばつが二年も続いた。このため雨ごいをしたところ、水に恵まれ豊作となったので、感謝のお祝いをして石廟を建てた」という意味の文が刻んであります。弁天社には信者が蛇の好物である「たまご」をいつも奉納しています。

 霧が池は現在日本住宅公団が開発中の霧が丘にありましたが、昭和四十七年二月に清めの儀式が行われ、埋め立てられました。宅地造成が完成すると、池の跡は児童公園になる予定でその一角には、今仮安置されている弁天社が再びまつられることになっています。

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戸塚の踊場 (泉区 踊場)

 戸塚駅から長後行きのバスで約五分、踊場と言う地名の所があり、バス停の傍らに南無阿弥陀仏と彫った石碑がある。土地の人達の言い伝えによると、猫の「怨霊」を供養するために建てられたものだとのことである。

 もちろん幾つかの伝説や民話が残されているが、一、二を紹介しよう。

 昔、戸塚の宿に水本屋という醤油屋があった。いつもたくさんの手ぬぐいを使っていたが、夜毎に一本ずつなくなるので不思議に思った主人が、一本の手ぬぐいに紐をつけ自分の手に結んで寝た。すると夜中にその手ぬぐいを引くものがある。そっと目を開けてみると、なんと家の飼い猫のトラがくわえて逃げようとするところだった。主人はとび起きて追いかけたが、とうとう見失ってしまった。それからも相変わらず手ぬぐいがなくなるので、一体猫が手ぬぐいを何にするのか不思議でならなかった。

 ある夜、踊場の近所を水本の主人が通りかかると、猫共が集まって、手ぬぐいでほおかむりして、踊りながら話し合っているではないか。

「おい、今夜はトラがいないぞ。」

「そうだ、水本のところのトラがいないな。」

「あいつ、今夜家で熱いオジヤを食わされたんで、舌をやけどしたといってたぜ。」

「トラがいなけりゃ調子が出ないなあ。」

 これを聞いて水本の主人はびっくりぎょうてん。とんで帰って家人に尋ねると、やはり猫に熱いオジヤを食わせたという。そこでやっと今まで手ぬぐいがなくなった訳もわかった。こうして毎晩猫達がここに集まって踊っていたことから踊場と言う地名になったとか。

 また、その頃毎晩、「猫じゃ、わしゃ猫じゃ、五郎兵衛とこの猫じゃ。」と、歌いながら踊り狂っている若い娘が出没し、戸塚の宿場では豆絞りの手ぬぐいの盗難が続いたとか、そこで、前記の供養塔を建ててからそのようなことがなくなったという説もある。

 いずれにしても踊場という地名にちなんで、後の人が考えたものか、またこうした因縁によって、踊場という地名を付けたものか詳細ではない。しかし、この辺りは、中田、汲沢、矢沢、岡津の村のはずれであるので、当時何の娯楽にも接することのなかった若者達が、せめてもの楽しみに、こうした場所に集まって踊りあかしたことを猫になぞらえて民話にしたものであろうか。

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月見の絵 (瀬谷区 下川井)

 霧が深くたちこめている日のことでした。黄金色に美しく色づいた稲も、ぼんやりとかすんでいました。そのとき、竹やぶの角の小道の上におぼろ月のように現れた影がありました。やがて、その影は一人の僧の姿となり、霧の中をとぼとぼと歩いて、下川井村の名主である桜井家の門前にたたずみました。

 あるじは、見なれぬ僧が現れたので、来意を問いますと、僧は、

「所用あって、瀬谷村の徳禅寺にまいったが、霧で道を失い、難渋いたした。」
と答えます。あるじは、

「仕事が終わったら案内をして上げますから、休んでおいでなさい。」
と、家へ招じ入れ、栗御飯、茸汁、どじょうの煮つけ、それに一椀の濁酒を添えてふるまいました。僧は大変喜んで膳に向いました。

食べ終わると礼を言い、

「好意に報いる物もないので、絵を一枚描かせてください。」
と言うので、あるじは、律儀な僧もあるものよと思い、書斎に案内しました。僧は書斎にこもり一枚の絵を描き終えて出てきたのは夕方でした。

 仕事を終えたあるじは、提灯をつけて、僧を送って出ました。晩秋の夜の山道は、虫の声も途絶えて、時折冷たい風が吹いてきます。提灯の鈍い光の中を、二人は静かに歩いて行きました。カサカサと落ち葉が音をたてるのは、ねずみが山栗を引いているのかもしれません。

 三ツ坂という坂を上って少し行くと、右手に地蔵様が立っています。その前まで来た時です。近くで「ウー」という底力のある犬のうなり声がしました。と、今まで後ろに聞こえていた僧の足音がフッと消えてしまったのです。ふり返ってみても姿はなく、呼んでも答えはありません。

 何かを感じたあるじは、急いで家に帰り、書斎のふすまを開けてみました。そこには、破れ笠をかぶり、土橋の上に立つ人が、月を眺めている図を描いた絵が広げられてありました。その月は半月であり、落款は、獣の足跡にも似た奇怪な形のもので、すべて、人の意表をついたものでした。

 この絵はだれ言うとなく「狸和尚の月見の絵」と名づけられ、人々の評判を集めるようになりました。

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夜泣き石 (神奈川宿)

 むかしむかし、いまの神奈川区が神奈川の宿と呼ばれていたころのこと。浦島太郎をまつってあるという言い伝えのある観福寿寺に、年とった坊さんが住んでおったそうな。

 或る年の冬のこと、坊さんのところへ檀家のご隠居さんが、夜な夜な遊びに来るようになった。坊さんは話し相手がいないものだから、大喜びでいろりばたに招き入れ、世間話に花を咲かせたり、一緒に飲み食いして、大層楽しんでおった。ご隠居さんは、そのたびに上機嫌で帰っていった。たら腹食った腹をゆさゆさゆすりながら。

 ところが、ある晩のこと、坊さんが、ご隠居さんを見送りに出てもどる途中、さっき拭き掃除したはずの板の間に、奇妙な足跡が点々とついているのを見つけた。気にかかったものだから、坊さんは、翌朝用足しに里に下りた足で、当のご隠居さんを訪ねてみたそうな。すると、そのご隠居さんは、夜歩きはおろか、身動きさえもできないほどの病を患っていた。だいぶ前から、ずっと寝込んだままだという。

「さても不思議なこともあるものだ。これはきっと魔性のもののいたずらにちがいない。」

そう考えると坊さんは、芋にそっくりの小石をいろりにくべて、ご隠居さんの来るのを今やおそしと待ちかまえた。

 そこへやって来たご隠居さんに、坊さんは、焼き芋だといって真赤になった小石をやった。

「ギャーッ。」

 ご隠居の正体は、年を経た大だぬき。焼けた小石のために大やけどをして、目をまわしておった。坊さんは、たぬきを押さえつけ、二度とこんないたずらをしないよう説き聞かせてやったそうな。

 その石は、今も観福寿寺の境内にあり、真冬の寒くて凍えそうな夜になると、この石から、たぬきのなき声が聞こえてくるということだ。

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久保山の狸 (保土ヶ谷宿)

 昔、保土ヶ谷の宿に、吉兵衛というお百姓さんが住んでいました。ある日、かめに入れた菜種油を手みやげに、嫁いだ娘のところに出かけました。久保山までさしかかると、まだ午後の二時頃で、日も高いはずなのに、突然太陽が赤くなって変な風が吹き、周りの木が不気味な音を立ててゆれました。

 そして、辺りは夜のように暗くなりました。

「変な天気だな。」
と、不安になった吉兵衛でしたが、ちょうちんの用意もなかったので、やみの道にしばし立ちすくんでいました。すると一つの灯が見えはじめ、それがだんだんと明るくなってきました。招かれたようにその家を訪ねると、びょうぶのかげのせんべいぶとんに、老婆が死んでいました。そして、水っぱなを流した老爺が死体にとりすがるように泣いていました。びっくりしましたが、かわいそうに思って、老爺に話しかけました。が、一言も返事をしません。

「きっと動てんしているのだろう。お気の毒に。」
と思って、銭袋の中からいくばくかの長目(小銭)を出して死体の前におきました。すると突然、死んでいた老婆がすくっと立ち上がり、にやっと笑いました。

 驚いた吉兵衛は、そばにあった天秤棒を振り上げて、泣いている老爺を思いきりなぐりつけました。たしかに手ごたえを感じたとたん、急に辺りが明るくなって、今まであった家も人も煙のように消え、吉兵衛がただ一人久保山の墓地の草むらの中に立っていました。吉兵衛のたたいたのは手みやげの油のかめでした。かめは粉々に砕けて、油は一面にとびちってしまいました。こわれたかめを手にした吉兵衛は、ぼう然と立ちつくしました。やがて気をとり直しましたが、みやげ物をなくし、あまりにも恐ろしい事を目にしたので、ほうほうのていで家に帰りました。

 やがて夜になり、月が淡い光を久保山になげかけた頃、墓地の草むらには、子連れの大狸が、おいしそうにとび散った油に舌つづみをうっていました。

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金沢の弁天様 (金沢区)

金沢区六浦の侍従川沿いに建つ光伝寺には、珍しい弁天様がおいでです。蛇身、人面の男女一対の宇賀神と呼ばれていますが、次のような話が残されています。

 むかし、弘法大師が唐の国へ渡られた時に作られた、両頭弁財天といわれた弁天様がありました。
大師が帰国の時に、この弁天様も一緒に三隻の船に乗って六浦へやってまいりました。

 その後、村の太郎右エ門がある夜夢を見ました。「庭に埋められて苦しいので、早く掘り出してほしい。」という弁天様のお告げです。
ぴっくりした太郎右エ門が翌朝庭に出てみると、大きな穴があり、その底から弁天様が姿を現しました。
「これは良いものが授かった。」と喜んでいると、子供がやってきて、「欲しい、欲しい。」というので与えたところ、子供達は次々に病気にかかり、弁天様にも変わったことが起きました。
しかたなくこのお像を焼いたところが、焼けずにかえって村中に良い香りがただよってきました。
光伝寺の住職は、「こんな大切なものを焼くとは何ともったいないことだ。」と、もらい受け、大切におまつりしています。

 このほか、金沢には有名な弁天様が数多くまつられています。
瀬戸神社の前の、海中に突き出ている琵琶島の船寄(立身ともいう)弁財天、これは北条政子が建てたと伝えられています。

 手子神社の境内にある瀟湘の夜雨弁天。
これは、金沢八景の一景である、「小泉の夜雨」の名が付けられています。

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宝生寺と竜 (南区)

 南区の堀ノ内町に、大正の震災にも、今度の戦災にも焼けなかった、宝生寺という真言宗の古い寺がある。
中村橋商店街をぬけて左折すると、緑の丘が見える。その丘が宝生寺のある所で、丘を宝生寺山という。

 寺には、多くの寺宝が残されているが、横浜の地名を記す最古の文書があることで有名だ。
寺にちなむ伝説の一つに、竜の話がある。寺には、今も苔むした池が残っているが、その池の主に竜がいた。
竜は、ときおり池をぬけ出して、寺にある千年松に登って、海を眺めていた。
あるとき、おのれの姿はどのくらい大きいのか見てみようと思い、松に登って灯りをかかげると、その姿が海に写った。
よし、おれの姿もまんざらでもない。波に写る姿は、まさに空にとび上がる勢いだ。その姿を記憶した竜は、いったん池にもどった。

 池で、うつらうつらと昼寝をしていた竜の耳に、とある祈りの言葉が聞こえてきた。「寺を建て、多くの人々を救いたい。竜様よ、加護あれ」と。
竜は、その熱意にうたれて、その声の主の夢まくらに立って、「汝の願い、かなえるぞ」と告げた。

 今、宝生寺を中心に、竜の姿の位置に、多くの寺が残されている。ほとんどが真言宗で、いずれも江戸時代までは、宝生寺の末寺であった。
頭に当たるところに竜頭山密蔵院(滝頭町)右手、宝珠をにぎるところに泉谷山竜珠院(岡村)、しっぽに当たるところに海竜山増徳院(元町)。
そのほか、南竜山無量寺(蒔田)がある。宝生寺は、青竜山と号している。ちょうど竜ののどの位置に当たる。

 横浜が開港になり、都市として発展するにつれ、竜の首とのどに当たるところに堀割川ができ、竜は、永年住み慣れた池を立ち去ったという。
また、千年松も竜がいなくなってからは元気がなくなり、昭和初年には枯死してしまった。

 中区と南・磯子区の開港前の地形は、空から見ると、飛竜の姿に似ているということだ。

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